Archive for 8月, 2009

評価方法

最近、ブログの更新をちょっとサボってました。ブログを書くモチベーションって、私の場合は「怒り」が大きなウェイトを占めるのですが、Twitterでちょこちょこ毒抜きしてしまうと、ブログを書くに至るまでのパワーが溜まりきらないというか・・・。

さて、今回はそんなTwitterで少し書いたことをまとめたい衝動に駆られて書いたものです。要約を書きますと、

政治家は、本当に世の中がよくなるかどうかで評価されると感じておらず、新しい法律を作ったことで評価されるのではないか?

という意見がことの発端です。これに対して、私は

目に見えるものを評価する、という構造を是正するしかないのかな?殆どの人が対外評価じゃなくて社内評価が基準になってますから、評価をどうにかしないとダメでしょう。ま、難しいけど。予防策って評価し辛いですからね。問題が起きた後の規制とか懲罰って形に表れるものは評価し易い。(原文)

と書きました。まぁ、この文で言いたいことはだいたいまとめられてるのですが、自分のためにももう少しまとめておこうと思い、今回のエントリを上げた次第です。

こういうのって面白いもので、なぜか色んなところで似たような議論が起きてたりするんですよね。いつもお世話になっている多面体さんのブログで、警察に対するエントリがあがっており、少し通ずるところがあるのかな?と感じました。(視点は全然違うんですが、内容には考えさせられることが沢山ありました。まだの方はぜひ。)

 

私の考えを書く前に、私にとってのバイブルになりつつある「ブラック・スワン」に面白い内容があるので、一部抜粋したいと思います。少し長くなりますが・・・

あるところに、勇気と力と知性とヴィジョンと根気を兼ね備えた政治家がいて、2001年9月10日に法律をつくり、即座に全面的に施行したとしよう。この法律によると、飛行機の操縦席には防弾ドアをつけて、ずっと鍵をかけておかないといけない(業績不振の航空会社には大きな負担だ)。テロリストが飛行機で、ニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込んだりする万が一を防ぐためである。

(中略)

航空会社の職員には喜ばれない政策だ。彼らの生活がややこしくなるからである。でも、間違いなく9・11は防げただろう。

操縦席のドアの鍵を閉めさせたその人の銅像が広場に立ったりすることはないし、お葬式の死亡記事でも「9・11のテロを防いだジョー・スミス、肝臓病の合併症で亡くなる」なんて書いてもらえることはない。彼の政策が行き過ぎで、資源の無駄遣いだと思った人達が、航空会社のパイロットの助けを借りて、彼を引きずり下ろすかもしれない。

(中略)

事件の後に賞賛されたのは誰だっただろう?マスコミに出てきたり、テレビで英雄みたいに振る舞っていたりした連中、英雄的なことをやったフリをしていた連中は誰だったっけ?

(中略)

報われるのはどっちだろう、不況を未然に防いだ中央銀行総裁がろうか、それとも前任者の間違いを「正す」べく就任して、たまたま景気回復に行き当たった中央銀行総裁だろうか?価値があるのはどちらだろう、戦争を防ぐ政治家だろうか、新しく戦争を始め(て運良く価値を収め)る政治家だろうか?

(中略)

治療より予防のほうがいいのは誰でも知っている。でも、予防のために何かをして高く評価されることはあまりない。

とある。評価方法についての本ではないので、じゃあ、これをどう評価すべきだったかは書いていないのですが、こういう視点で予防と治療について整理して考えたことはなかったので、かなり衝撃を受けました。いや、読むと当たり前なのですが、なぜ、予防に力(資金)を注がないのかという問題は、個々人の能力や姿勢といった話では決してなく、それどころか組織としての考え方ということですらないということに気付かされました。

私もこの本を読むまでは、「なぜ予防に力を入れないんだ」「ことが起こった後の法整備ばかりに焦点が行くんだ」と憤っていました。でも、これらの問題の一番難しいところであり、キモとなるのは、多分「予防の評価は難しい」というところにあるのだと思うようになったのです。

 

何で組織は「予防」に重点を置いた評価方法を導入しないのか、というと、「定量的な評価」ができないからだと思います。一般企業に勤めるサラリーマンはもちろん、政治家や警察といった公務員も「社内」で評価されることで給料が増え、待遇が良くなっていきます。これは組織を維持する上では仕方のないことだ思います。簡単に言うと「がんばった人、成果を上げた人は評価することで社員のモチベーションを上げましょう」ということ。で、「頑張った」とか「成果を上げた」ということをどうやって評価するのかが問題になるのですが、全員が1フロアにいるような小さな会社ならまだしも、大きな組織になると、例えば同期だったり後輩だったりがどのような仕事をしているかっていうことは分からなくなってしまいます。そうすると同期より評価が劣っていた場合に、何が劣っているのかが全く見えず、不満ばかりが募ってしまうことになります。これは組織としては絶対に避けたいので、どうしても「定量的」な評価が必要になるんです。

では、「予防」についてはどうか?9・11の例でも分かるように、「予防したことによって起こらなかったことの効果」を明確にすることは非常に難しい。予防しなくても起こらなかったかも知れないし、予防によって(極端ですが)人類全滅を防いだことになったのかもしれない。効果を最大化して評価してしまうと、ありもしないことに対して好き勝手なことを始める人が出てしまうし、最小化するとやっぱり予防なんて誰もやりたがらない。これは非常に難しい問題です。

 

政治家は完全に公人ですし、警察も税金から給料が払われている訳ですから、「国民のためを考えて、自分の評価なんて気にするな」という意見もあるでしょうし、それに反対という訳でもないのですが、その人自身の生活もありますし、意欲を持って取り組んでもらうためには「対価」が必要だとも思うのです。政治家や警察の仕事を「ボランティア」にしてしまったら恒久的に国を守ることはできなくなってしまいますから。

もちろん、政治家や警察官のやっていることが全て「だから仕方がない」なんてことは決してないですし、個々人の問題もあるのは間違いないと思うのですが、根本的、抜本的なところを変えない限りは、焼け石に水という感じがするのです。

 

どこかにこういう「評価方法」について研究している人はいるのかな?ぜひ意見を聞いてみたいので、もう少し調べてみようと思います。

 

最後に、私は「政治家や警察官の1つ1つの言動について問責することに意味がない」とは決して思っていません。むしろ、そういう1つ1つを地道に糾弾することは絶対に必要だと思います。でもそれだけでは変わらないものもあるのでは?と思うだけです。実際に活動されている方を心から応援しますし、決して否定するつもりはないこと、分かっていただければ幸いです。

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似非評論家

夏休みで休んでいる間はネットはほとんど見なかったのですが、その代わりにテレビのニュースを見たりしていました。休み明けの今週になって、改めて先週の出来事とかをネットでも見たりしたのですが、今までなんとなっく感じていた違和感の正体が見えたような気がしました。自分でブログを書くようになり、それまで以上に他人のブログやそこに寄せられるコメントを関心を持って読むようになりました。そこでずっと違和感を感じていたのですが、その違和感の正体が何なのか自分でも分からずにもやもやした感じが続いていたのです。その正体は「似非評論家」。

先週は、薬物関連のニュース、選挙関連のニュース、選挙にも絡めて戦争関係の話等がとても多く報道されていたような気がします。時事ニュースということで、その辺りのことを書いているブログやコラムを今週になっていくつか読んでみた(そこに寄せられたコメントも)のですが、ちょっと気持ちが悪くなるような内容が多く、非常に陰鬱な気持ちになりました。何が嫌かって、事情通気取りで人の「感情論」を論破するような内容のものが非常に多かったからです。こういう人達って、何かを伝えたいとか、自分のために整理したいとかそういう意図があまり読み取れなくて、「俺ってすごいだろ?こんなこと知ってるんだよ。」みたいな内容なんですよね。そこまでなら、まぁ、個人の趣味ですから勝手にしてくれればいいんですけど、相手を思いやることのないコメントとかは本当に気分が悪くなりますね。

最も酷かったのが、原爆記念日の広島市長のコメントに対するもの。「核兵器が世界平和に貢献している」という論調のものがいくつかあり、しかも市長を「偽善者」呼ばわりですよ。要は、「核兵器があることによって戦争が減っているのだから核兵器根絶とか言うな」ってことみたいです。最もらしい数字とかを並べて、正に評論家気取り。本心かどうなのかは分かりませんが、「こういうところまで考えてる俺はすげー。核兵器による被害だけを見て物言っているやつらは視野が狭い。」みたいな論調。本気で吐き気がする。

今まで本ブログでも書いてきた児童ポルノを含む性犯罪のことでもそう。「まぁまぁ、気持ちは分かるんだけど大人はもうちょっと広く考えなきゃいけないんだよ。」みたいな評論家然とした意見が多いこと多いこと。なんだろ?ブログとかは小難しく書かないといけないルールでもあるのかな?もしくはブログ主を論破したら賞金出るとか?(笑) 「自分の言葉」を発してる人がとても少ないし、他人の言葉を借りている人達ほど自分の言葉を発している人を攻撃する傾向があるように感じます。なんでこういう思考になるのかは全く理解できないですね。賢そうに見えるとでも思ってるんですかね?賢そうに見えることにどんな意味があるのか分からないし、そもそも賢そうには見えないんですけどね。

物事を広く捉える必要があるのはわかります。一つの事象にとらわれすぎることはマイナス要因となることもあるでしょう。でもね、実際の被害者(核兵器のであれ、犯罪者のであれ)の方々の気持ちも考えないと「広い視野で考えている」ことにはならないんですよね。こうやって書くと本当に当たり前のことなんですが、当たり前のことが考えられていない人があまりに多いのです。そこに吐き気を覚える。

当たり前のことをあえて書きますけど、他人との繋がりなしでは生きていけません。そして、人と人を繋ぐのは「感情」だと思うんです。愛情、友情、憎悪みたいなものも含めて。本来、法律とかルールっていうのは愛情・友情といった良いとされる感情を守り、憎悪・征服欲といった悪い感情を抑えるために作られるべきものだと思います。なのに、人の感情を無視して作った法律、ルールにどんな意味があるのでしょうか?他人の気持ちを考えられない人は、どんなに知識があっても決して聡明とは言えません。感情の無い、血の通わない法律では何も守ることができません。「怖い」「辛い」「悲しい」という声に真剣に耳を傾ける必要があるんじゃないでしょうか。

上でいくつか例をあげる際に「俺は」って男性一人称で書いたのはわざとです。私はあまり男女間の差異について述べるのは好きではないので、こういう内容を書くときは普通「俺は(私は)」とかって書くんですけど、今回はあえて「俺は」と書きました。これは、上で書いたような似非評論家は圧倒的に男性に多いから。というより私が見た限りでは男性しかいませんでした。世の男性が全てそういう人ではないし、女性にそういう人がいないということもないでしょうが、とにかく圧倒的に数が違うんです。とても残念ですし、だからこそ思うんです。男性でも、ちゃんと気持ちを考えることができる人の方が多いはずなんですから、そういう人達にもっと声をあげてもらいたい。当たり前のことを当たり前に言うことは別に恥ずかしいことじゃないですから。

あわせて読みたい:http://manysided.blog85.fc2.com/tb.php/32-d87e71a6

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久しぶりにゆっくりしました

今週一週間、夏休みをとりました!こんなにのんびりしたのは何年ぶりだろう?

休み中は

  1. メールは見ない!
  2. なるべくPCは起動しない!
  3. 仕事のことは忘れる!

と決めたのが良かったのかも。メール見るとどうしても気になっちゃってつい仕事しちゃうので・・・。さて、大分リフレッシュできたので、来週から頑張って働かないと。

色々気になるニュース等もあったけど、そういう訳でブログの更新もお休みしていました。また、ちょっとずつ書いていくつもりです。

たまにはゆっくりするのも必要ですね〜。

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