似非評論家


夏休みで休んでいる間はネットはほとんど見なかったのですが、その代わりにテレビのニュースを見たりしていました。休み明けの今週になって、改めて先週の出来事とかをネットでも見たりしたのですが、今までなんとなっく感じていた違和感の正体が見えたような気がしました。自分でブログを書くようになり、それまで以上に他人のブログやそこに寄せられるコメントを関心を持って読むようになりました。そこでずっと違和感を感じていたのですが、その違和感の正体が何なのか自分でも分からずにもやもやした感じが続いていたのです。その正体は「似非評論家」。

先週は、薬物関連のニュース、選挙関連のニュース、選挙にも絡めて戦争関係の話等がとても多く報道されていたような気がします。時事ニュースということで、その辺りのことを書いているブログやコラムを今週になっていくつか読んでみた(そこに寄せられたコメントも)のですが、ちょっと気持ちが悪くなるような内容が多く、非常に陰鬱な気持ちになりました。何が嫌かって、事情通気取りで人の「感情論」を論破するような内容のものが非常に多かったからです。こういう人達って、何かを伝えたいとか、自分のために整理したいとかそういう意図があまり読み取れなくて、「俺ってすごいだろ?こんなこと知ってるんだよ。」みたいな内容なんですよね。そこまでなら、まぁ、個人の趣味ですから勝手にしてくれればいいんですけど、相手を思いやることのないコメントとかは本当に気分が悪くなりますね。

最も酷かったのが、原爆記念日の広島市長のコメントに対するもの。「核兵器が世界平和に貢献している」という論調のものがいくつかあり、しかも市長を「偽善者」呼ばわりですよ。要は、「核兵器があることによって戦争が減っているのだから核兵器根絶とか言うな」ってことみたいです。最もらしい数字とかを並べて、正に評論家気取り。本心かどうなのかは分かりませんが、「こういうところまで考えてる俺はすげー。核兵器による被害だけを見て物言っているやつらは視野が狭い。」みたいな論調。本気で吐き気がする。

今まで本ブログでも書いてきた児童ポルノを含む性犯罪のことでもそう。「まぁまぁ、気持ちは分かるんだけど大人はもうちょっと広く考えなきゃいけないんだよ。」みたいな評論家然とした意見が多いこと多いこと。なんだろ?ブログとかは小難しく書かないといけないルールでもあるのかな?もしくはブログ主を論破したら賞金出るとか?(笑) 「自分の言葉」を発してる人がとても少ないし、他人の言葉を借りている人達ほど自分の言葉を発している人を攻撃する傾向があるように感じます。なんでこういう思考になるのかは全く理解できないですね。賢そうに見えるとでも思ってるんですかね?賢そうに見えることにどんな意味があるのか分からないし、そもそも賢そうには見えないんですけどね。

物事を広く捉える必要があるのはわかります。一つの事象にとらわれすぎることはマイナス要因となることもあるでしょう。でもね、実際の被害者(核兵器のであれ、犯罪者のであれ)の方々の気持ちも考えないと「広い視野で考えている」ことにはならないんですよね。こうやって書くと本当に当たり前のことなんですが、当たり前のことが考えられていない人があまりに多いのです。そこに吐き気を覚える。

当たり前のことをあえて書きますけど、他人との繋がりなしでは生きていけません。そして、人と人を繋ぐのは「感情」だと思うんです。愛情、友情、憎悪みたいなものも含めて。本来、法律とかルールっていうのは愛情・友情といった良いとされる感情を守り、憎悪・征服欲といった悪い感情を抑えるために作られるべきものだと思います。なのに、人の感情を無視して作った法律、ルールにどんな意味があるのでしょうか?他人の気持ちを考えられない人は、どんなに知識があっても決して聡明とは言えません。感情の無い、血の通わない法律では何も守ることができません。「怖い」「辛い」「悲しい」という声に真剣に耳を傾ける必要があるんじゃないでしょうか。

上でいくつか例をあげる際に「俺は」って男性一人称で書いたのはわざとです。私はあまり男女間の差異について述べるのは好きではないので、こういう内容を書くときは普通「俺は(私は)」とかって書くんですけど、今回はあえて「俺は」と書きました。これは、上で書いたような似非評論家は圧倒的に男性に多いから。というより私が見た限りでは男性しかいませんでした。世の男性が全てそういう人ではないし、女性にそういう人がいないということもないでしょうが、とにかく圧倒的に数が違うんです。とても残念ですし、だからこそ思うんです。男性でも、ちゃんと気持ちを考えることができる人の方が多いはずなんですから、そういう人達にもっと声をあげてもらいたい。当たり前のことを当たり前に言うことは別に恥ずかしいことじゃないですから。

あわせて読みたい:http://manysided.blog85.fc2.com/tb.php/32-d87e71a6

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10件のコメント »

  1. 多面体 said

    こんばんは。こちらの記事(http://manysided.blog85.fc2.com/blog-entry-32.html)への、トラックバックありがとうございます。

    わたし自身は、感情ってとても大切なものだと思うのです。人間は感情の生き物ですし、良い社会になるためには、お互いの感情を尊重しあわなくてはならないはず。
    でもそれができていないから、変なことになりますよね。

    小さい頃から、我慢は美徳、人に頼らず自分で解決、というふうに教えられているけれど、それだけでは解決しないと思います。議論する習慣があまりなく育ってしまうし、権利を主張することは悪いことのように思われがちで、だから感情論等言われるのかなと。
    そういう現状に、本当は納得してはいないから不満がおきるのだろうか、とも思います。

    また、人権教育がたりていないというのもあるけれど、暴力とは何かということをそもそも学ぶ機会がないのですよね。
    今はデートDV等を高校大学で受講することも多いようですが、デートDVの講座を受講後、「暴力って殴る蹴るだけじゃないってわかった」
    「いやなときはいやだと言っていいんだとわかった」
    「相談できる人をつくっておくことが大切だとわかった」
    という感想がとっても多いそうです。とても大切なことだと思いました。
    でも、高校大学までそれを知らずに育つ、全ての人が受講するわけではないというのは、悲しいことだとも思います。

    • Matsuzaki said

      コメント、TB許可ありがとうございます。

      > わたし自身は、感情ってとても大切なものだと思うのです。
      > 人間は感情の生き物ですし、良い社会になるためには、お互
      > いの感情を尊重しあわなくてはならないはず。
      > でもそれができていないから、変なことになりますよね。

      本当にそうですよね。感情は人間の根幹ですから。相手を思いやるって、人同士のつきあいの上での最低限のことなんですけどね。
      時間が掛かっても初等教育から見直さないといけないのかも知れないですね。あと、残念なことに家庭での教育にも疑問を感じざるを得ない人がいますし。

      > 「相談できる人をつくっておくことが大切だとわかった」

      これ、すごく大事ですよね。そして、相談できる相手を作るためには自分の感情をさらけだして、相手の感情を受け止める、そういう付き合いが必要っていうことでもある訳ですから、やっぱり生身の人との付き合い方が下手な人が増えていることも一因なのかと思ってしまいます。

  2. オーシャン said

    >自分の言葉を発していない
    「はっきり言うと角が立つ」からだと思います。
    「被害者」の事を対等だなんて考えていないから、(もっと極端に言えば被害者は敗者であって、負けた者には権利はないと考えるから)その相手の気持ちを考えるなんてしないのです。 だから本音は「負けたヤツはだまってろ!」なんですけど、それだと「角が立つ」から他者から借りてきた(疑似)論理武装で、論破して、自分の正当性をアピールしたいのだと思います。
    こういう「利己的極まりない」感情って、私は「本能的で自然な感情」だと考えていますが、こういう感情をさらけだしてもキチンと受け止め、議論することって、できますか?
    大多数の「被害者のブログ」ではこの感情を提示したら、その時点で「思いやりがない」の一言で拒絶されると思います。
    だから、あえて「自分の言葉」は発しないのかと思います。
    もし「思いやり」とは「相手に迎合する、相手の意見を否定しない」事だとしたら、相手と異なる意見は、相手を傷つける事となるから、意見を出せず、議論にはならないと思います。
    人間だれしも、自分と同意見は心地よく、異なる意見は嫌なものです。
    でも、心地よい意見だけを聞き、嫌な事は拒絶し続けると、自分の考えに凝り固まってしまい、議論をしたり共存をしたりする事が出来なくなってしまうものです。これは被害者側にも、加害者側にも言える事です。
    ブログに何か書くと言う事は、世間に向かって意見を公表している訳ですから、
    批判・否定があって当然だと考えるべきです。
    自分の言いたい事だけを言って、同意見以外は聞きたくない人は、コメント欄を設置してはいけないと思います。 対話をしましょうとか、ご意見下さいというからにはそれ相応の覚悟が必要だと思います。

    • Matsuzaki said

      ちょっと待って。負け?何が?それが「自然な感情」?それはないでしょ。「利己的極まりない」感情は自然じゃないですよ。文字通り利己的な感情、自分勝手な感情。そういうものをぶつけることは自由でもなんでもないですよ。
      コメントを削除したり、否定するのは「意見が違うから」ではないですよ。中にはそういう人もいるのかも知れないですけど、ほとんどの人が「そのコメントを読んだ人が不愉快な思いをしたり、場合によってはフラッシュバックが起こるから」削除しているのだと思います。本ブログでもそういうコメントは削除しますよ。表現の自由をはき違えてるひと多いですよね。相手を思いやって、最低限のルールを守った上で与えられる自由だと思います。最低限のルールを守らずに自分の権利ばかり主張するのは完全に間違ってると思います。

      以前のエントリでも書いたように、匿名性の悪い面ですよね。例えば通り魔にあって、すれ違い様にいきなり刺されて重傷を負った人に「面と向かって」その人が怯えるような、その事件を思い出すようなこと言う人ってほとんどいないはずです。でも、ネットだと書く人がたくさんいる。それが自然な感情だなんて絶対に認められないです。面と向かって言えればいいってもんではもちろんないですけど、ネット上とか匿名性が保たれる空間ではそういう箍が外れるというか、より無神経なコメントが目立ちます。そういうのが本当に腹立たしい。

      「それ相応の覚悟」をもってブログ書いたりしてるんですよ。実際に被害に逢った人達は。少しでも同じ思いをするような人が減ることに貢献できれば、という思いで。それを踏みにじるようなコメントを書いて「議論・会話してくれない」なんてはっきり言って頭おかしいとしか思えない。

      オーシャンさんと私は根本的に考え方が違うのでしょうけど、今まではそれでも言いたいことは理解できましたし、お互いに情報交換しつつ溝を埋めることができるような感じはありましたけど、今回ばかりは全く同意できません。

      • オーシャン said

        正直なコメント、ありがとうございます。

        では、「根本的に考え方・価値観が異なる人々」と衝突がある場合、そのようにすれば解決へのアプローチができるのでしょうか?
        (嫌がらせで聞いているのではありません。 私自身、かなり本気で「どうしたらいいか?」悩んでいます。)
        私もあえて被害者の傷をえぐるようなコメントを書くのは被害者の方にとって良くないと思っています。(私のコメントを読むとそうは思っていないと思われそうですが・・。)
        でも、そうなると「本当の気持ち」は伝えられないと思いますし、伝わらないから、相手の気持ちは理解できず、「歩み寄り」や場合によっては「対策」(この場合、相手を「敵」と見なすわけですが・・)も考えられないのかなと思います。
        やはりどちら側でもない「できるかぎり中立」な人・組織が、双方の言い分を聞いて解決策(妥協案)を考えるしか無いのでしょうかね?

        • Matsuzaki said

          人を傷付けるコメントは「違う意見」だとは認められないですよ。「違う意見」はあって当然だし、それを否定するつもりもありません。
          「本当の気持ち」が人を傷付けるようなものであれば、その人は人間的に欠陥があると言わざるを得ないんじゃないですかね?それは是正するべきことであって、その人の気持ちを理解してあげる必要なんてないと思いますが。
          例えば殺人であっても、情状酌量の余地のあるものと完全な快楽殺人だと意味合いが少し違うと私は考えています。快楽殺人者の気持ちなんて理解できませんし、してあげる必要もないと思います。快楽で人を殺す人のとの考え方の違いを「考え方・価値観が違う人」として捉えませんよね。これと同じことなんじゃないでしょうか?

          私も実際の被害者な訳ではないので、もしかしたら被害者の方が見たら不快感を覚えるような内容を書いているかもしれません。でも、理解しようとし、意図せず傷付けてしまった場合にはきちんと謝罪する、という最低限の礼儀とかマナーを守っていればちゃんと相手も対話してくれるものと思っています。リアルなら皆普通にやってることかと。ネットだから(顔が見えないから)といって、何を言っても言ったことに責任を持たないのは違うと思います。

          • オーシャン said

            なるほど・・・。
            どうにも相容れないみたいですね・・。

            私は悪人の気持ちを知る事が、その悪との共存を図る道かと考えています。
            例えが極端ではありますが、快楽殺人者の思考を考え、「なぜそう考えるに至ったのか?」を
            理解する事が別の新たな快楽殺人を防ぐ方法なのかと思います。
            それを「快楽殺人なんて、誰が見ても悪なのだから(←ココ思い込みだと思います。 自分の価値感に誤りなぞあるはず無く、他の人も同じ考えに違いないという先入観だと思います。)、即刻死刑にすべきである」として、「くさいものに蓋」をしても、その場の溜飲は下がっても、「また発生するんじゃないか?」とずっと気に病み続ける事になるのではないでしょうか?
            Matsuzakiさんは「悪は許せない」「悪を考える事も許せない」「悪との共存なぞ考えてはいけない」「悪は撲滅すべきだ」という思考なのですかね。
            私には耐え難いです・・・。
            「心にやましさがあるからだ」とか言われそうですが、「心にやましさのない人間」なんているのでしょうか?(いるのかも知れませんが逆に私には理解できません。)
            たぶん、こんな思いを感じている人が、被害者さんのサイトを見て、自分が非難・攻撃対象にされていると危機感をつのらせ「反撃・攻撃」するのだと思います。
            お互いが傷つけあっているのに、当の本人達は「相手を傷つけている」とは感じないまま、エスカレートして溝が深まるのかと思いました。

            あ、そうか、ここも私の思いこみだ。
            被害者は加害者を「傷つけた人=認められないもの」として捉えているから、非難・攻撃しても「私は正しい行いをしている」となるのか。
            宗教戦争の「聖戦」と同じですな。
            これは解決が難しいなぁ。

  3. 多面体 said

    こんにちは。

    Matsuzaki 様、お世話になっています。

    オーシャン氏については、まあいろいろといいたいことはありますが、言ってもムダだと思うのでやめておきます。

    オーシャン氏もしくはオーシャン氏のような方に、見てほしい記事をご紹介しておきます。
    暴力とは何なのか、人権とは何なのか、差別とは何なのか、考えるきっかけにでもなればと思います。
    http://d.hatena.ne.jp/manysided/20090826/1251236148

    • Matsuzaki said

      こんちには。リンク貼っていただいたようでありがとうございます。
      最近ブログの更新はちょっとさぼりぎみなのですが、記事は毎回読ませていただいています。特に今回の記事は大変興味深いです。ぜひ紹介されている本も読んでみたいと思います!

  4. 多面体 said

    Matsuzaki 様、お返事ありがとうございます。

    ブログを読んでいただいていて、嬉しいです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします(^^)

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